ツイート
施設
神社仏閣
歴史
自然
イベント
その他
6
5
4
3
2
1
武蔵国府跡 国司館地区
今から約1300年前、国司館地区には、武蔵国司の館が建てられていました。また、この地が御殿地と呼ばれるのは、徳川家康がここに府中御殿を築いたためです。家康はここを奥州仕置の帰途の豊臣秀吉の饗応、秀忠との対面のほか、鷹狩りなどでたびたび訪れたとされています。 当該地は平成23年2月に国史跡武蔵国府跡に追加指定され、整備を進めており、第1期整備が完了したため、平成30年11月25日から、「国司館と家康御殿史跡広場」としてオープンしました。国司館建物の柱を実物大で復元した模型や、10分の1スケール国司館復元模型を設置しました。また、VR(バーチャルリアリティ)により国司や家康府中御殿の当時の様子を再現した映像を武蔵国府スコープでご覧いただくことができます。
長福寺
正しくは古木山諏訪院長福寺。時宗遊行派。寺伝によれば、寛喜2年(1230)天台宗として創建した古刹で、開山は一遍上人で、はじめに勝福寺と称しました。その後、正応年間(1288-1292)に遊行二祖真教の武蔵国巡化の際に時宗遊行派に改まったといわれています。境内からは中世の板碑が多く出土し、古寺であることを物語っています。
小野神社
住吉町三丁目にある本殿一間四方、拝殿二間四方の神社で、旧小野宮の鎮守です。祭神は瀬織津比咩命(せおりつひめのみこと)・天下春命(あめのしたはるのみこと)・稲倉魂命(うかのみたまのみこと)です。小野神社は多摩川をはさんで多摩市にもあり、「一之宮小野神社」といい、どちらが元の小野神社なのか古来から議論されています。江戸時代の地誌によれば、「往古多摩郡本宿村の小野宮と云処に鎮座ありしを、水災に依て遷され、村を一宮と称す」とあり、小野宮にあったものが多摩川の氾濫により、南側の一之宮に遷座されたものと思われます。しかし全ての村人が移ったわけではなく,残った人々が守りつづけたものと思われます。
オリンピック競歩折返記念碑
この碑は、アジアで初めて開催された、第18回東京オリンピック大会の50キロの競歩競技に参加した各国の選手の栄誉をたたえて建てられたもので、国道20号線沿いの小金井街道との交差点の少し先(東)にあります。競技が行われた昭和39年(1964)10月18日は、小雨の降る肌寒い日でした。
かなしい坂
この坂の名の由来は、江戸時代の玉川上水の工事にかかわりがあると言われています。玉川上水は、はじめ府中の八幡下から掘り起こし、多磨霊園駅付近を経て調布の神代辺りまで掘削して導水していました。しかし水はこの坂あたりで地中に浸透してしまい、工事は失敗に終わってしまったとされています。この工事の責任を問われて処刑された役人たちが、「かなしい」と嘆いたことからこの名がついたといわれています。このときの堀は、今でも「むだ掘り」「空堀」「新堀」の名で残っています。
上染谷不動尊(染谷不動尊)
銅像阿弥陀如来立像(国指定重要文化財)が安置されています。東京都文化財ウィーク期間中、一般公開されています。像高48.8㎝、台座12㎝の小さな仏像で円満・優美な相貌を持っています。
熊野神社(府中市西府町)
創建は江戸時代初期と伝えられています。例大祭は9月中旬の土日に行われ、祭神は素戔鳴命(すさのおのみこと)です。もとは今の第五小学校の東側にありましたが、江戸時代中頃に現在地に移されました。拝殿は、天保9年(1838)に再建されました。 本殿と拝殿は、市有形文化財に指定されています。また、本殿北側には国指定史跡「武蔵府中熊野神社古墳」があります。
甲州街道常久一里塚跡
甲州古道は、江戸を起点とする五街道のひとつであり、江戸日本橋から内藤新宿を経て、府中宿を通り、さらに多摩川を渡り、日野の万願寺、そして甲州へと続き、下諏訪で中山道と合流していました。一里塚は、旅人の目印として一里(約4㎞)ごとに作られたもので、徳川家康が慶長九年東海道などの街道沿いに築かせたことで、その後日本全国に普及していきました。この常久一里塚跡は、甲州古道の塚の一つで、江戸の日本橋からちょうど七里目にあたります。塚の上には、榎やけやきなどが植えられて、旅人が陽射しを避ける休憩所ともなったのでしょう。
甲州街道本宿一里塚跡
甲州古道は、江戸を起点とする五街道のひとつであり、江戸日本橋から内藤新宿を経て、府中宿を通り、さらに多摩川を渡り、日野の万願寺、そして甲州へと続き、下諏訪で中山道と合流していました。一里塚は、旅人の目印として一里(約4㎞)ごとに作られたもので、徳川家康が慶長九年東海道などの街道沿いに築かせたことで、その後日本全国に普及していきました。この本宿一里塚は、江戸の日本橋よりちょうど八里目にあたります。現在はNEC府中事業場内にあり、この碑もNEC府中事業場内によって昭和43年に建てられたものです。 ※NEC府中事業場内にあるので、見学は許可を取る必要があります。詳細は、同事業場にお問合わせください。(問合わせ先電話番号:042-364-1111)
瀧神社
大國魂神社の末社で、ハケの道が途切れる東京競馬場の手前にあります。正面にある御神木である大きなけやきの木は、府中の名木百選に選ばれています。くらやみ祭の競馬式(5月3日)の前に、ここの湧水で馬と騎手が身体を洗い清めたとされています。かつてハケ沿いにはあちらこちらに湧水があり、人々の生活に欠かせないものでしたが、現在この湧水はフェンスで囲まれ飲むことはできません。
明治天皇行在所跡
江戸時代から明治時代にかけて府中宿を代表する商家であった田中三四郎家がここにあり、明治13~17年(1880~1884)の間に明治天皇の休憩所や宿所として使われていました。旧田中家は現在、郷土の森博物館内に移築復元されています。
一之鳥居の位置を示した石碑
この碑は、江戸時代の頃、この場所から北へ約550mの地点(今の都立農業高校南東側付近)に一之鳥居があったことを示しています。現在、大國魂神社境内にある大鳥居は二之鳥居にあたり、昭和26年(1951)に寄進されたものです。
野口仮屋
大國魂神社例大祭「くらやみ祭」の中で、宮司を含め神職一同が仮屋の主人野口氏より古式に従った接待を受けます。これは昔、大國魂神が府中に降臨した際に、野口家が宿を提供したという古事にならった儀式です。 ※普段は中に入っての見学はできません。
人見街道
この街道は、武蔵国の国府であった府中から杉並区大宮の大宮八幡へ行く道であったといわれ、大宮街道とも呼ばれていました。現在では府中基地で寸断され、若松町の新小金井街道から三鷹を通り、杉並の浜田山までのほぼ一直線約18㎞の道です。
人見原古戦場
鎌倉幕府滅亡後の南北朝時代に、各地の武士は、南朝方と北朝方にわかれ戦乱は全国に広がりました。武蔵国の国府があった府中付近は、鎌倉街道が通り、政治・交通の要衝であったため、大きな合戦の舞台となりました。正平7年(1352)に足利尊氏と新田義貞の遺児義興・義宗らが一戦を交え、尊氏は一時は敗れたがその後一進一退の攻防の末、尊氏軍が勝利し足利氏の支配権を確立した大きな意義を持つ戦いでした。この合戦がおこなわれたのが、浅間山周辺の人見原・金井原で、現在東京都の旧跡です。
府中小学校発祥の地
明治18年(1885)に初めて府中学校の本校舎が建てられ、明治20年(1887)小学校となりました。今の府中市立第一小学校の前身にあたります。現在は、府中市役所西側の敷地内に碑が立っています。
府中町道路元票
大正9年(1920)府中町の道路整備が行われた際に、ここを基準としました。現在、見られる元票は平成2年(1990)に当時のものを復元したものです。
万葉の歌碑
平成11年(1999)にけやき並木の整備完了に伴い建てられたもので、万葉集より武蔵野を歌った「武蔵野乃久佐波母呂武吉 可毛可久母 伎美我麻尓末尓 吾者余利尓思乎」(草が風になびくよう、私はあなたにひたすら心を寄せたのに)という男性に思いを寄せる女性のかなしみを綴った一首が書かれています。
龍光寺
天台宗で神明山と号します。押立に生まれ一介の農民から江戸幕府の財政をつかさどる勘定吟味役という要職にまで昇進した川崎平右衛門(1694~1767)の墓があります。平右衛門は武蔵野新田の開発に尽くし、その後、美濃国の輪中地帯の治水事業を成し遂げました。現在、墓所は都の旧跡に指定されています。
ブルーベリー果樹園 摘み取り体験(ナイトウ果樹園)
国分寺市内にはブルーベリーを栽培している農家が多く、6月中旬から8月末頃にかけては、新鮮でおいしい旬のブルーベリーの摘み取りが体験できます。毎年多くの方が訪れ、特に親子で参加される方には大好評です。
6
5
4
3
2
1
Copyright 2015 KokubunjiCity/FuchuCity All Rights Reserved.