府中小唄の歌碑をめぐるコースです。府中小唄ゆかりの地6か所にかひがありますので、ぜひ探してみてください。
都内でも屈指の古社で、社伝によると今から約1900年前の景行天皇の時代に、武蔵国の鎮守(武蔵国魂)として大國魂大神を祀ったのが始めとされています。大化改新の後、この地に国府が開設されると、武蔵国の総社となり、国内の著名な6か所の神社を合祀したので、六所宮あるいは武蔵国六所明神社と称されるようになりました。社名が正式に大國魂神社と定められたのは、明治4年(1871)のことです。平安中期には、源頼義・義家父子が奥州の安倍一族の征定を祈り、鎌倉初期には、源頼朝が平家の追討と妻政子の安産を祈願したことを社伝にみることができます。また、江戸幕府を開いた徳川家康の尊崇も厚く、社領500石を寄せています。昭和37年(1962)に都の有形文化財に指定された本殿は、流造りの屋根をもつ3つの建物を横につらねた「相殿造り」と呼ばれる珍しい形で、中央に大國魂大神、左右に一の宮から六の宮までの神を祀っています。縁結びや厄よけの御利益で有名ですが、最近はパワースポットとしても人気です。毎年5月3日~6日に行われる例大祭「くらやみ祭」は多くの観光客でにぎわいます。平成23年に改築された「随神門」の中には、ハートの形が隠れていますのでぜひ探してみてください。
江戸時代中期の延享元年(1744)、神学者依田伊織が、天台宗安養寺末寺の善明寺を、現在地に移転、諸堂を造立したもので、別名「伊織屋敷」とも呼ばれていました。墓地には、都旧跡に指定されている依田伊織の墓と勤王の志士、西園寺実満の墓があります。寺宝としては、刀鍛冶、藤原助近作の「大鉄仏阿弥陀如来坐像」及びその胎内仏とされる「小鉄仏阿弥陀如来立像」が安置されています。共に国指定の重要文化財です。
室町幕府の将軍足利尊氏(1305-1358)が、元々この地にあった市川山見性寺を再興し、龍門山高安護国禅寺と号したのがはじまりとされ、尊氏が改名する前の高氏から名づけられたとされています。それ以前の寺は平将門を討ち取った功績で武蔵野守となった藤原秀郷の館跡であったと伝えられています。尊氏は国と人々の平和を願って全国に安国寺や利生塔を建てました。武蔵国の安国寺が高安寺です。しかし鎌倉時代末期から南北朝の戦乱の時代には、崖の上にあったため、この寺はしばしば合戦の本陣となりました。曹洞宗。現在の本堂は享和3年(1803)、山門は明治5年(1872)、鐘楼は安政3年(1856)の建立で、東京都選定歴史的建造物に指定されています。また、観音堂は市有形文化財に指定されています。
分倍河原駅のロータリーにある、馬上で刀をふりかざす勇ましい姿の像は、分倍河原の合戦で活躍した新田義貞の像です。文化勲章受章者の富永直樹氏が制作を手掛けました。
元弘3年(1333)5月、上州(群馬県)に討幕の兵を挙げた新田義貞は、鎌倉幕府軍を打ち破りながら南下しました。5月16日、府中の分倍河原(ぶばいがわら)で北条泰家率いる幕府軍を下し一気に鎌倉に攻め込みました。「太平記」によれば、このときの新田軍は10万、対する幕府軍はこれをやや上回ったと記されています。この歴史的な合戦の舞台となった分倍河原に、新田氏の子孫で元男爵新田義美氏の筆による分倍河原古戦場碑が昭和10年に建てられました。
農業用の府中用水の流路の一つである新田川にフタをして緑道として整備されたもので、日本電気㈱府中事業場の正面から郷土の森までを結んでいます。さまざまな樹木が植えられ、なかには梅の並木道もあり、季節を問わず散歩やジョギングが楽しめます。途中には1333年に新田義貞が北条氏を破り、鎌倉幕府滅亡のきっかけとなった分倍河原古戦場の碑や、5月下旬から6月下旬にしょうぶの花がさく「しょうぶ池」もあります。南北にまっすぐ通っている下河原緑道と交差したあと、「サントリー武蔵野ビ-ル工場」の横を通って南へと行くと、「郷土の森」へと続き,郷土の森博物館のところで終わります。
多摩川は、四季折々の姿が「玉のように美しい」という意味で、昔「玉川」という字があてられていました。是政橋と南武線の鉄橋との間の一帯は、オギの群落地となっています。秋の夕陽に、銀色の穂波が揺れて輝いている様子はたとえようもない美しさです。また、多摩川に沿って整備された「府中多摩川かぜのみち」は、四季それぞれに変化を見せる多摩川の風景を見ながら、サイクリング、ジョギング、ウォーキングを楽しむ人々で賑わっています。
野球場やサッカー場、総合体育館、総合プールなどのスポーツ施設が隣接しています。また、公園内には、バーベキュー場や交通遊園、広い芝生広場もあるほか、7月頃には修景池に、大賀博士によって発見された大賀ハスをはじめ多くの種類の花蓮が咲きます。
昭和51年(1976)9月に廃線となった旧国鉄下河原線の跡地を利用して、甲州街道ぞいにある下河原線広場公園より南へと、自転車・歩行者専用道として整備したものです。下河原線の前身は、明治43年(1910)に多摩川の砂利運搬を目的に開通した東京砂利鉄道でした。緑道の一部には、かつてこの道が鉄道であったことを示す2本のレールが、路面に埋め込まれて今も残っています。多摩丘陵を臨み、田園風景の中を南北にまっすぐ走るこの道は、四季折々の花や木を楽しむことができます。途中東西に続く新田川緑道と交差して、郷土の森博物館手前で西に折れ、南町にある八幡神社まで続いています。
江戸時代、幕府から御法度(ごはっと)、掟書(おきてがき)、犯罪人の罪状などを一般庶民に通達する方法として、板に書き示して街道沿いの宿場や橋のたもと、村の名主宅前など、人目に付きやすい場所に掲げたものを「高札」といい、これを掲げた場所を「高札場」といいました。これに似たものはすでに室町時代からありましたが、通達の体制や場所の整備が行われたのは江戸時代に入ってからで、幕府の威光を示すためにも、盛んに利用されました。府中の高札場は大國魂神社御旅所の柵内に現在も残っていて、大きさの点からも非常に珍しいもので、都の旧跡に指定されています。ここは当時、甲州街道と北上する川越街道、南下する相州街道(現在の府中街道)が交差する交通の要でした。
府中駅のすぐ西側に南北約500mにわたって、ケヤキの並木が続いています。この並木は、馬場大門のケヤキ並木といい、大正13年、国の天然記念物に指定されました。ケヤキの並木で天然記念物に指定されているのはここだけです。康平5年(1062)、源頼義・義家父子が奥州安倍一族の乱平定後の戦勝祝いに、ケヤキの苗1000本を寄進したことが起源といわれています。現在のケヤキ並木の形状は、徳川家康が関が原、大坂両役の戦勝の御礼として馬場を献納し、ケヤキの苗を補植したことからできたと考えられています。四季折々の木々の表情は大変豊かで、まさに府中を代表する景観の一つといえます。
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