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熊野神社 (国分寺市西恋ヶ窪)
創建は不明、元弘3年(1333)「分倍河原の戦い」に巻き込まれ社殿が焼失したと伝えられています。境内には文明18年(1486)当地を訪れ、恋ヶ窪の地名を詠んだ聖護院道興の歌碑や、幕末に江戸で俳句の宗匠として活躍した宝雪庵可尊が建立した芭蕉句碑があります。
新田義貞公之像
分倍河原駅のロータリーにある、馬上で刀をふりかざす勇ましい姿の像は、分倍河原の合戦で活躍した新田義貞の像です。文化勲章受章者の富永直樹氏が制作を手掛けました。
電車開通記念碑
明治22年(1889)に新宿~立川間で開通した甲武鉄道(現在の中央線)が政府に買収され、その後大正11年(1922)に国分寺駅まで電化が進み、蒸気機関車から電車になったのを記念して、同年11月21日に建てられた碑です。
善明寺
江戸時代中期の延享元年(1744)、神学者依田伊織が、天台宗安養寺末寺の善明寺を、現在地に移転、諸堂を造立したもので、別名「伊織屋敷」とも呼ばれていました。墓地には、都旧跡に指定されている依田伊織の墓と勤王の志士、西園寺実満の墓があります。寺宝としては、刀鍛冶、藤原助近作の「大鉄仏阿弥陀如来坐像」及びその胎内仏とされる「小鉄仏阿弥陀如来立像」が安置されています。共に国指定の重要文化財です。
祥応寺のコノテガシワ
【市重要天然記念物】 ヒノキ科の常緑針葉樹で、中国北西部を原産とし古い時期に渡来しています。 当初は本堂前の左右に植えられていましたが、昭和初期に左側の1本が枯れ、現在は右側の木だけが残っています。 枯れた木の根で地蔵尊が彫られ、地蔵堂に安置されています。
馬霊塔
馬霊塔は、競走馬の供養のために建てられたもので、左右に十数基の墓石が並んでいます。墓石には、昭和26年(1951)に皐月賞と日本ダービーを制したトキノミノルをはじめ競馬ファンには懐かしい歴代の名馬の名前が刻まれています。このすぐ隣には、馬の保護神として信仰されている馬頭観音がまつられています。
国分寺市民俗資料室
昭和50年から、市史編さん事業が開始され、編さん過程で収集した写真・古文書やその後寄贈を受けた民具などを収蔵し、国分寺市内の農業、特に麦作りに関わる農具を展示しています。
分倍河原古戦場碑
元弘3年(1333)5月、上州(群馬県)に討幕の兵を挙げた新田義貞は、鎌倉幕府軍を打ち破りながら南下しました。5月16日、府中の分倍河原(ぶばいがわら)で北条泰家率いる幕府軍を下し一気に鎌倉に攻め込みました。「太平記」によれば、このときの新田軍は10万、対する幕府軍はこれをやや上回ったと記されています。この歴史的な合戦の舞台となった分倍河原に、新田氏の子孫で元男爵新田義美氏の筆による分倍河原古戦場碑が昭和10年に建てられました。
「日本の宇宙開発発祥の地」顕彰碑
昭和30年(1955)、糸川英夫博士率いる東大生産技術研究所が、南部銃製造所跡(現在の早稲田実業学校)で、長さ23㎝の小型ロケット(通称ペンシルロケット)の水平発射実験を行いました。 平成22年(2010)6月14日に帰還した探査機「はやぶさ」が向かった小惑星「イトカワ」の地名の一つは、宇宙開発発祥の地「国分寺」と命名されてます。 また、記念碑の東側には王貞治氏 第1号国民栄誉賞記念碑があります。
武蔵国府八幡宮
大國魂神社の境外末社。聖武天皇(在位724~749)が一国一社の八幡宮として創立したものと伝えられる古社で、八幡町という地名の由来ともなっています。今もうっそうとした林が神社を取り囲み、荘厳な雰囲気をかもし出しています。
本町遺跡(国分寺村石器時代遺跡)
明治27年(1894)、日本人単独による日本初の考古学の発掘調査が行われた遺跡です。考古学者の大野延太郎と鳥居龍造は、切り崩した崖の部分に石器などが噴出している層を発見し、『東京人類学雑誌』に発表しました。
武蔵台遺跡公園
公園内には、武蔵台東遺跡で発見された「縄文時代の敷石住居跡」が発掘時の状態で復元展示されています。これは、今から約4000年前の縄文時代中期後半に使われた住居で、大きさは約5メートルあります。居住部分中央に炉が設けられ、炉を囲むように平たい面を表にした川原石が敷かれています。
摂社・坪宮
大國魂神社例大祭「くらやみ祭」期間中の5月5日夜、ここ、摂社・坪宮で、神輿が神社を出発して御旅所に向かったこと、これから神輿に幣(神前に供える紙などでできたもの)を捧げることを神前に報告する「国造代奉幣式」という儀式が行われます。神職が馬で坪宮に参拝し、国造(大和時代に,朝廷によって任じられた地方官の一つ)の代理として御旅所に向かい神輿に奉幣します。
稲荷神社(光町)
平兵衛新田の鎮守です。 道に迷い、白狐に案内された名主は、その白狐をお稲荷様の使いであったと思い、姿を消した場所に神社を建立しました。
川崎平右衛門及び観音寺中興開山供養塔(観音寺境内)
【市重要有形文化財】 新田開発の苦労を偲んで、観音寺が中藤村から中藤新田に移転した時の住職阿闍梨法印亮瑞と、移転に尽力した幕府代官川崎平右衛門を供養するために、住職と農民が寛政7年(1795)に建立した宝篋印塔です。
神明社(西町)
中藤新田の鎮守です。 国分寺崖線上に観音寺と並んで西に面しています。観音寺と共に開発当初から計画的に配置されました。社殿は神明造りです。
高倉塚古墳
古墳時代の後期の古墳で市の指定史跡に指定されています。京王線分倍河原駅西方を中心に広がる29基の高倉古墳群のなかで墳丘が現存している数少ない古墳の一つであり、その中心に位置しています。中世以降には,信仰の対象となって手厚く保護されてきました。今までの発掘調査では、墳丘の構築法が判明し、又墳丘下層からは6世紀前半とされる土師器杯が出土するなど、学術的にも貴重な古墳となっています。
子育地蔵(高木八幡宮境内)
高木八幡宮は、野中新田六左衛門組の小字高木の鎮守です。 新田開発の直後、元文4年(1739)造立の子育地蔵は市内の石造物の中でも古い部類に属します。
毘沙門堂(鳳林院境内)
野中新田の開発計画が進められている時に、指導者の1人の夢の中に毘沙門天が現れ、計画の成功を告げたと伝えられています。毘沙門天は堂内に安置され、今でも大切に信仰されています。
川崎・伊奈両代官謝恩塔(妙法寺境内)
【市重要有形文化財】 幕府の新田農民援助策を立案した川崎平右衛門と、それを継続した伊奈半左衛門に感謝して、南北武蔵野新田80余の村々が、寛政11年(1799)に建てた宝篋印塔です。建立の経緯は、内部から発見された市重要有形文化財の「武蔵野新田養料金一件始末書」に記載されていました。
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