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土師竪穴住居跡
【市重要史跡】 薬師堂の西側で、武蔵国分寺跡を区画する北側の溝を発掘調査した際に見つかった4つの住居跡の一つです。 名称の「土師」は、「土師器」を使用していた時代(古墳時代から平安時代)という意味です。
国分寺薬師堂
【市重要有形文化財】 国分寺境内にあり、建武2年(1335)に新田義貞の寄進により、僧寺金堂跡付近に建立されたものが、宝暦6年(1755)ごろに現在の場所に建て替えられました。
髙安寺
室町幕府の将軍足利尊氏(1305-1358)が、元々この地にあった市川山見性寺を再興し、龍門山高安護国禅寺と号したのがはじまりとされ、尊氏が改名する前の高氏から名づけられたとされています。それ以前の寺は平将門を討ち取った功績で武蔵野守となった藤原秀郷の館跡であったと伝えられています。尊氏は国と人々の平和を願って全国に安国寺や利生塔を建てました。武蔵国の安国寺が高安寺です。しかし鎌倉時代末期から南北朝の戦乱の時代には、崖の上にあったため、この寺はしばしば合戦の本陣となりました。曹洞宗。現在の本堂は享和3年(1803)、山門は明治5年(1872)、鐘楼は安政3年(1856)の建立で、東京都選定歴史的建造物に指定されています。また、観音堂は市有形文化財に指定されています。
木造薬師如来坐像
【国重要文化財】 国分寺境内にある国分寺薬師堂内に安置されています。平安時代末ごろの作で彫眼、漆箔が施された寄木造による半丈六(高さ約1.91m)の像です。両脇には日光・月光菩薩が安置され、室町時代の作といわれています。 国の重要文化財に指定されており、毎年10月10日に開帳が行われています。
国分寺仁王門
【市重要有形文化財】 国分寺境内にあり、宝暦年間(1751~1764)に建造された八脚門です。 門の左右には、作者不明で享保3年(1718)に作られた阿(向かって右、口を開いている)吽(向かって左、口を閉じている)の仁王像が安置されています。
こうやまき(武蔵国分寺境内)
【市重要天然記念物】 国分寺本堂の裏山に高く生育し、近在の「まき」の木では最も古く、樹齢は約300年、高さ約20m,幹の直径は約1mあります。 こうやまきは日本特産のスギ科の常緑喬木で、庭木として特に寺院や神社に植えられています。材は建材や桶などの器材に使用されます。
国分寺楼門
【市重要有形文化財】 国分寺門前にあり、前沢村(現東久留米市内)の米津寺(米津出羽守田盛の菩提寺として創建された寺)の楼門を明治28年に移築したものです。三間一戸の楼門で、2階には十六羅漢像(現在13体)を安置しています。
国分寺市立歴史公園史跡武蔵国分寺跡(僧寺北東地域)
【国史跡】 金堂、講堂、七重塔などの主要建物がおかれた僧寺伽藍地の北限の境界溝がある公園です。 国分寺を取り囲む素掘りの溝は、幅2.1~3.0m、深さ0.8~1.2mあり、ここでは地下に埋没した溝の様子を復元した断面を見ることができます。
東京都多磨霊園
墓地というより、森林公園と言ったほうがぴったりの、緑に囲まれた公営の霊園です。大正12年に東京市が都市計画の一環として造成した、わが国初めての公園墓地です。周囲を武蔵野の面影を残す雑木林にかこまれた園内は道が碁盤目状に走り、桜の名所としても知られています。埋葬者はおよそ42万柱といわれ、軍人、政治家、学者、芸術家など多くの著名人が眠っており、特に、作家では、菊池寛、与謝野晶子、鉄幹、江戸川乱歩など、数えればきりがありません。それぞれの時代や業績、作品などに思いをはせながら、一つ一つ捜し歩くのもおもむきがあるかもしれません。分からないことがあれば、正門入口にある管理事務所をお訪ね下さい。そしてここはあくまでも墓所であるので、マナーを守って見学しましょう。
国分寺市文化財資料展示室
武蔵国分寺を営繕する施設(修理院)と考えられる鍛冶工房跡が見つかった市立第四中学校内から出土した瓦、土器、鉄製品などを中心に展示しています。 また、国分尼寺跡の整備事業を紹介する映像の放映や、住田正一古瓦コレクションのうち、東山道、東海道諸国の古瓦を展示しています。
伝祥応寺跡・塚跡
いずれも中世の遺跡で、鎌倉街道沿いに寺院と塚が残っている貴重な遺跡です。
東京農工大学
●国分寺街道の正門から農学部本館へと続くけやき並木は、緑深いキャンパスの象徴。「府中30景」にも選ばれている見事な景観です。また、農学部本館は、昭和10年(1935年)の竣工で、国の登録有形文化財に指定されています。 ●「農工夢市場」は、平成18年1月12日に開設され、東京農工大学農学部附属広域都市圏フィールドサイエンス教育研究センター(FSセンター)で生産された農産物や加工品などを販売するアンテナショップです。 平成22年4月から府中キャンパス南門横に販売拠点を移し、食農教育の一貫としての情報発信や収集の基地、また、農林産物の生産から収穫、販売まで行える実践教育の場としても活用し、FSセンター学生実習等により生産された生産物を毎週下記の営業時間に販売しています。 本アンテナショップでは、今後の運営方法への学生からの提案にも期待しています。
恋ヶ窪東遺跡 柄鏡形敷石住居跡
縄文時代の中期末から後期にかけて、関東から中部地方で住居の床面に石(礫)を敷くことが流行しました。この住居跡は、出入口部が突出した様子から「柄鏡形敷石住居跡」と呼ばれています。型どりをして復元展示をしています。
東山道武蔵路跡 恋ヶ窪地区
【国史跡】 恋ヶ窪谷低地は、古代も湿地が広がる地域でした。恋ヶ窪地区では、東山道武蔵路を直線でつくるために敷粗朶工法と呼ばれる葦の茎や枝葉を敷いて地盤の滑りを防止し、さらに土を交互に重ねて基盤強化した痕跡が見つかっています。姿見の池に解説板があります。
姿見の池
【都名湧水57選】 鎌倉時代、恋ヶ窪は宿場町として栄え、遊女達が池で、朝な夕なに自らの姿を映していたことから「姿見の池」と呼ばれるようになったと伝えられています。恋ヶ窪という地名の由来の一つともいわれています。 昭和に入り一度埋め立てられましたが、現在は隣接する東京都緑地保全地域と一体的に整備され、かつての武蔵野の里山風景を見ることができます。「武蔵野夫人」(大岡昇平著)に登場したほか、野鳥が観察できるスポットとしても人気の名所となっています。
武蔵国分寺参道口跡
武蔵国分寺参道口跡は、武蔵国分僧寺中門から南へ延びる道路跡(参道)と武蔵国分尼寺方面から南東へと斜行する道路跡とが接する場所にあたり、参道側の南端部から境界を示す門柱状の遺構が発見されました。この参道口の遺構は広範囲にわたる寺地の南端にあたる場所に位置し、寺の内と外を示す境界の役割を担っていたといえます。国分寺の寺地の境を示す明確な施設は全国でもほかに例がありません。国府と国分寺が直接結びつき、一つの都市として機能していたことを示す貴重な遺跡です。
一葉松(東福寺境内)
恋ヶ窪伝説に由来する一本葉の松は、いつしか「一葉松」と呼ばれるようになりました。言い伝えの一葉松は、昭和56年(1981)に枯れてしまいましたが、現在、実生の松が東福寺境内に植えられ、見ることができます。
高札場
江戸時代、幕府から御法度(ごはっと)、掟書(おきてがき)、犯罪人の罪状などを一般庶民に通達する方法として、板に書き示して街道沿いの宿場や橋のたもと、村の名主宅前など、人目に付きやすい場所に掲げたものを「高札」といい、これを掲げた場所を「高札場」といいました。これに似たものはすでに室町時代からありましたが、通達の体制や場所の整備が行われたのは江戸時代に入ってからで、幕府の威光を示すためにも、盛んに利用されました。府中の高札場は大國魂神社御旅所の柵内に現在も残っていて、大きさの点からも非常に珍しいもので、都の旧跡に指定されています。ここは当時、甲州街道と北上する川越街道、南下する相州街道(現在の府中街道)が交差する交通の要でした。
旧陸軍調布飛行場白糸台掩体壕
掩体壕とは、敵の空爆から戦闘機を守るために作られた格納施設のことです。太平洋戦争の末期、首都東京の防衛のために建設された調布飛行場の滑走路の周辺には、コンクリートや土で造られた掩体壕が60基ほどあったと伝えられています。戦後、その多くが取り壊され、現在は、府中市と三鷹市に2基ずつ、計4基の掩体壕が残っているだけとなっています。この掩体壕は、平成24年(2012)3月から一般公開されています。
恋ヶ窪村分水(恋ヶ窪用水路周辺緑地)
玉川上水が完成した4年後の明暦3年(1657)に、国分寺村、恋ヶ窪村、貫井村(現小金井市内)の3ヶ村組合が、江戸幕府に願い出て水田用に分水した国分寺村分水の一部で、恋ヶ窪用水と呼ばれています。市内の分水の中で最も古く、大きな堀は昔のままの姿を残しています。開削から360周年にあたる2017年に市の重要史跡に指定し、翌年には恋ヶ窪用水路緑地としてオープンしました。
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